あなたの見ている世界はあなたの思っている世界ではない

相対の私たちには、観念というプログラムがビルトインされているために、、

本来的には、真っ新な、分からない、分けられない世界を、、

知識や常識、信仰や信念といったフィルターを通してそれらに向き合うことで、、

分かっているものとして、分けられた世界の中で生きるように、ある意味では、仕組まれていると言えるでしょう、、

実際、この催眠から目覚めることを、覚醒や目覚めなどと言うわけですが、、

もちろん、こうした観念世界も全体性の中の豊かな表現の一部であり、、

そうしたフィルターがあることによっての、相対世界での利便性はこの上ないものであるからして、

まったくこれらを捨て去ってしまえば良いという話をしているわけではありませんが、、

観念の世界を生きることは、、実際のところ、思い込みに閉じ込めれら世界を生きることになるので、、

体感的にそうは気づいていないとしても、、意識の感覚として、、窮屈さや不自由さなどというのを、

程度の差はあるにせよ、感じないことはないと言ってしまっても良いかもしれません、、

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禅的に言えば、、こうした無意識のプログラムを見過ごしたまま日常を生きることは、、

真っ新な今を前に、、習慣を生きていることになるために、、

真実を生きていない、、などと強調されます、、

というのも、、観念の世界を生きるというのは、、フィルターごしに世界を見ているわけですから、、

本来的なリアリティとは、どうしたって、距離が発生してしまっているということになります、、

距離即ち、、分離性であるために、無意識的に分離感を誘発させてしまっているために、、本質とのダイレクト感は覆い隠されてしまうということにもなるのです、、

ここにおいて見事なまでに、、対象世界を生きる私という二元感覚が生まれ、

その私に関してのストーリーが様に紡がれ、それらが真実味を持って浮かび上がることで、催眠思い込みの様相はますます深まるという、いわば、エネルギー的な構造であると言えるでしょう、、

というわけで、日お伝えしているように、この距離を突破し、

観念世界から目覚めつつも、、それらを投げ捨てるのではなく、それらを含み俯瞰しながらも、

それらとダイレクトな出会いを実現することで、分離の誤解を見事に統合へと転じる術こそ、、

禅という発明であると言えるでしょう、、(((つ)つ

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