🐶南総里見八犬伝🐕 Vol.2
振り向くといつの間に現れたのか、曲がりくねった杖を持った老人が、道の脇に立っていた。
肩まで伸びた長い髪も、胸まで垂れたあご髭も真っ白、白銀のようにきらきら光っている。
一見してたいそうな高齢である。
百歳を超えているかもしれない。
首に水晶の数珠を巻いていた。
老人は輿についた家紋を見ると
「滝田城主、里見殿ゆかりの方かな?」
と聞いた。
静かな穏やかな声だが、言い知れぬ威厳がある。
「はい。」
世の常の人ではないと見て取って、乳母はうやうやしく答える。
御簾を上げると、
「里見義実公の姫君です。」
老人は鶴のように細い体を折るようにして、中を覗き込んだ。
「ほほう…。」
白い髭をしごきながら目を細めると
「かわいらしいお子じゃのう。したが何ゆえ泣きなさる?」
「それが…分からないのです。」
乳母はつくづく途方に暮れた顔で
「姫君は今年3歳になられたのですが、お口がきけません。また、ついぞ笑ったことがありません。いつもこうして悲しげに泣いておられるのです。それであちこちの神社仏閣にお参りしたり、鎌倉から名のある高僧をお招きして、加持祈祷をお願いしたりしているのですが、何の効き目もありません。今も洲崎の明神様にお参りして来たのですが…。」
「なるほど。それはお困りであろう。で、名はなんと申される?」
「伏姫様と申し上げます。」
「伏姫?」
老人は眉をひそめた。
「変わった名じゃな。」
「はい、三伏の候にお生まれになったので。」
三伏の候というのは簡単に言えば夏の1番暑い時期のことである。
「したが姫君とはのう。」
老人はまた白いあご髭をしごくと
「名はしばしば、その人の運命を暗示する。〈伏〉という字は人偏に犬と書く。人偏はもちろん人のこと。つまり伏という字は、人と犬が並んでいるという意味の字じゃ。」
「どういうことでしょうか?」
乳母は不安になったようである。
「詳しいことは分からぬ。」
老人は輿の中にじっと目を注いでいる。
まだ黒い雲が、空を覆っている。
輿の中は暗い。その暗闇の奥に小さな体が、か細く浮かび上がっている。
まるで暗闇が、幼女を抱き抱えているかのようである。
老人は声をひそめると、乳母に言った。
「姫君には、呪いがかかっているようじゃ。」
「えっ、呪い…!」
乳母は仰天して叫びかけ、慌てて口を押さえる。
「ああ、女人の呪いがな。」
老人は首に巻いていた水晶の数珠を取ると、伏姫の首にかけた。
「この数珠をしんぜよう。とりあえずはこれが伏姫を守ってくれるじゃろう。」
「呪いが消えるのですね。」
「いや…。」
老人はまた、輿の中の暗闇を見つめた。
「この子にかけられている呪いは、極めて強い。よほど邪悪な力を持った女人がかけているのだろう。わしの法力を持ってしても、全てを取り除くというわけには行くまい。」
「それでは伏姫様は、これからも不幸な目に遭われるとおっしゃるのですか?」
「あるいはな。だが仮にそうだとしても、悲しむではない。昔より禍福はあざなえる縄のごとしという。仮にこの姫に不幸が訪れようと、その不幸から里見家を守り、ひいてはこの世を悪から守る者が、現れるはずじゃ。里見の殿にもそのように伝えられるがよい。」
老人はそう言うと、ではさらばと杖を回し、老人とは思えない早足で洲崎明神の方に歩いて行ったが、社の杜辺りまで行くと、不意にかき消すように消えた。
後ろ姿を目で追っていた乳母は、思わず目をこすった。夢でも見ていたような気がしたのである。
だが、空を覆っていた黒雲は嘘のように消え、伏姫も泣き止んでいた。
その姫の首には、八つの大きな珠を連ねた水晶の数珠がかかり、輿の中に差し込んだ夕陽に、きらきらと輝いていた。
To be continue