MISIA 星空のラジオ(7/17)その2 - ボクの奥さん

「まず最初に、甲斐さんのプロフィールをご紹介させて下さい」とMISIAさん

「1953年、福岡県博多にお生まれになってます…博多なんですね

(『うん』と甲斐さんの声)

あのー、私も東区の方に実家が(『あっ!そうですね』)ありまして…

私、行ったことはないんですけど

甲斐さんも福岡のライブ喫茶『照和』に

(『そうですね』)出てらして…(『ハイ』)

やっぱり福岡で活動してると…(『高校生…高校生の時ですね』)

『照和』という喫茶が福岡にありまして…ライブ喫茶ですよね

で、色んな福岡、また九州出身のミュージシャンの方々が、色んな方が

そこで歌ってらっしゃるってトコなんですけども…」

と、間に甲斐さんの合いの手や相槌が入りつつ…(笑)

資料を読み上げられている時から…というか

甲斐さんが登場なさった時からずっと

お二人とも、相手の言葉が終わらない内に、発言し始めていらして(笑)

「福岡の人はみんな、語尾にカブセるように話す」という

甲斐さんの言葉を思い浮かべてました(笑)

「そして、1974年に…5月に甲斐バンドを結成なさって

同年11月にシングル【バス通り】でデビューなさいます…大好き!(笑)

1978年に発表した【HERO〜ヒーローになる時、それは今】で

初のチャート1位を獲得されます」

…と、ココで【HERO】が流れ始め

「このシングルは、180万枚のビッグヒットで

翌年には【安奈】を発表なさって

その後、1986年に甲斐バンドとしての活動に終止符を打ったのち

ソロとして活動をスタートされます

1996年、甲斐バンドを再結成…で、現在は

ソロと甲斐バンドとしての活動を行われていて

2014年に40周年を迎えられて

翌年には、甲斐バンドの楽曲をモチーフにした短編映画作品集

『破れたハートを売り物に』にて銀幕デビューされております…フフフ(笑)」

…って「KAIFIVEよりそっち?」なプロフィール紹介があり(笑)

「来年は45周年?」と訊ねられて

「そう…ですね、そうみたいですね」と甲斐さん

MISIAさんの「45年歌い続けるっていうのは…?

私、今年でデビュー20周年なんですけど…」との言葉に

「どうですか?イヤ、何十年歌いたいとか思ってないでしょ?」と逆質問(笑)

…が、MISIAさんが何のためらいもなく

「あ、もう、一生歌いたい」と即答(笑)なさると

「ああ、そういうことですね…僕、一生は思ってなかったですね

ナンか基本的に、この仕事イヤになったら

いつでも辞めてやるぞと思ってたんですよ

でも、ナンか、ここまでやれてるっていうのはナンか、アレですね…

宿命というか…ま、天職っていうことなんだなって思ってますけど、ハイ」

…と、いつものように話されたんだけど(笑)

MISIAさんは「それは意外でした!

辞めてもいいかなって思ってらっしゃったっていうのは…」と驚かれたご様子

ただ、甲斐さんが「ナンかね、男子一生の仕事なのかな?って

ちょっと思ってたんです」とおっしゃった時には

1978年のインタビュー記事にあった

「『いつまで歌う?』…一生歌うよ

『シンガーは男の仕事?』…もちろん、そうだよ」

…というやり取りが頭をよぎりました(笑)

でも、そのすぐ後に「だけど、基本的には、ロックミュージックとして

どんどん、こう…変えたい、変えてやるぞ!

っていうのは思ってましたね」と、おっしゃっていて

「俺の歌がロックだとかフォークだとかいうんじゃなくて

『歌』として聴いて欲しい

『あなたは何ですか?』って訊ねられたら

俺は『シンガーです』って答える

『どんなシンガーですか?』って問われたら

『ロックスピリットを持ったシンガーです』って言うよ」という

かつて「ジャンル分け」論争にウンザリしておられた(汗)頃のご発言が重なり

そういう意味では「シンガー」は「男子一生の仕事」だったんじゃないかと…?

まあ、この感覚は、世代も性別も違うMISIAさんには伝わりにくかったのか?(苦笑)

「ライブも…色んな形のライブもやられてますよね?」とお訊ねになり

甲斐さんが「そうですね、今の都庁が建ってる所とかね」と答えられると

「野外ライブ!?あそこで!?(『あと、花園とか』)

野外ライブやられて…(『そうです、そうです』)

それが当時、2万…3万人くらい?(『3万人』)

あんな場所で…今でもすごいビックリしますけど

当時って…1980年代っていうのは

そういう場所でやるっていうのは、どうだったんですか?」とMISIAさん

甲斐さんは「イヤ、もう全く、そういうのは有り得ない、現実として…

だから、そこに話こぎつけたイベンターも偉いんですけど

それで、今、社長になってますけどね(笑)

だから、そういう所でやっぱり…

しかも、僕、高層ビルに間接照明を当てて

ステージを浮かばし…ナンての?浮かべる(浮かび上がらせる?)というか

そういうの、やりたかったんで…まあ、ある種の事件でしたよね」と話されてました

更に、MISIAさんが「NHKホールで、ロックバンドとしてライブをやったのも

甲斐さんが一番、ホント初めてでしたよね」とおっしゃっると

「そうですね、ま、NHKホールは、歌謡曲と演歌のものだったんで

僕らみたいなのはダメっていうのがあったんですけど…

紅白歌合戦の依頼が来たんですよ

僕…『そんな輝かしい舞台は、とてもとても…』とか言いながら(笑)

で…『NHKホールを中継しませんか?』って言ったら、OK!(笑)

イヤ、ナンかね、自分のスタイルと自分のテイストを、どう貫いて行くか?

みたいなことなんですけど、難しいですよね、色んな問題もあるし…」

…と返されてましたが、そのNHKホールでのライブMCで

「NHKホール…NHKってことで言えばね、田舎の親が喜ぶよ(笑)」とか

「『日本放送協会』…ニッポンって付くんだから

日の丸をしょって、俺たちはやってるって感じで…(笑)」と観客を笑わせつつも

紅白歌合戦に出るよりも、ステキなことだと思ってる」と

甲斐さんがおっしゃった時のことを

今でもくっきりと覚えている者が我が家にも…(笑)

「あと、花園ラグビー場やったりとか

ナンか、そういうの色々やりました」と甲斐さん

ビルボードツアー」について訊かれて

「これはね、結局、今4年…4年過ぎたんですね、うん

それは、9日間とか…やったり、定期的に…

イヤ、なんですかね?ちょっと面白いなと思って…

あの…アメリカーナって言って、今、すごい向こうで

こう…ニューカントリーというか

すごいそういう風潮が、4〜5年くらい前から来てて

カントリーが、カントリーじゃないのね」と

そもそものきっかけを説明されると

MISIAさんも「あっ!ナンか、そんな感じが…(『そうなんですよ』)

それは、ポップスもカントリーすごく入って来てて…」と納得なさったらしく

「そう、入って来てる…それで、僕、パンチブラザーズがすごい好きだったんで

少数でそういうのをやろうかなって思ったのが…」という

甲斐さんの言葉にカブセ気味に(笑)

「実は【最後の夜汽車】のアレンジをしてくれているトランペッターの

NYにいる黒田くんっていう子が…あの人が

USAブルーノートの日本人として初めて契約をしたっていう

(『あ、そうなんだ』)…ミュージシャンで

その彼に、1枚アルバム、アレンジして貰って発表したんですけど

今年もそのブルーノートで、一緒にライブをやるんです

ミュージシャンをNYから呼んで…

もちろん【最後の夜汽車】も歌わせて頂くんですけれども…」と一気に話され(笑)

甲斐さんは「僕、生中継観ました…生放送…『おおー!』って…」と

おそらく?去年、MISIAさんからのライブのお招きを

お断りせざるを得なかったことを気にされていたのか?

ライブの模様をチェックなさったことを明かされると

「ありがとうございます!すごく光栄です!」とMISIAさん

「ナンか、ラジオでも…甲斐さんのラジオでも

かけて頂いたっていうお話を聞いて…」と恐縮されているトコへ

甲斐さんは「イヤイヤ、せめてそれくらいはね、やらないとね

大人の対応としてはね(笑)」と、まさに大人の対応をなさってました(笑)